星野村のもう一つの星 その5
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慶応大学を昭和六十三年三月に卒業したY君は、翌四月に国際証券に入社し、東京本社の法人営業部に配属される。
それからは毎日名刺を持って、東京都内の新規会社を飛び込み訪問をし、証券セールスに駆け回る。大学時代の新聞配達の経験から、各社の訪問セールスは慣れたものであった。当時はバブルの絶頂期にあり、どの会社も活気を呈しており、面白いように相談に乗ってくれた。入社二年目の大納会には、日本経済の指標である日経平均株価が史上最高を記録し、証券会社はどこも空前の好景気に沸き、笑いが止まらなかった。
ところが、この年を境としてバブルの崩壊が始まり、証券界は急速に冷え込んでゆく。しかしY君にとっては、活況を呈していた時代よりも、むしろこれから先の苦しい時期を経験したことが、自分にとっては大きな財産となったと述懐している。
証券会社は昔とは違って、取り扱う商品も多様化しており、株式市場が冷え込んでいる時でも、お客様のニーズに対応できる商品があった。Y君は金融機関を担当していたので、国債などの安全性の高い商品を主に販売した。商品のパフォーマンス次第でお客様に喜んでいただいたり、時には不満を抱かせる事もあった。不満を持たれたお客様には即座に持ち前の粘り強さと根性でもって、誠心誠意つとめ、絶対に逃げる事はしなかった。正面からお客様と対応した。この事がY君にとっては、誇れるものの一つだと今でも自負している。だから国際証券在職期間中にお客様と人間関係がおかしくなったことは一度もなかった。現在でも国際証券時代からの多くのお客様と、つきあいが続いている。
Y君の勤務地は当初の赴任地東京本社から北九州支店、久留米支店、そして大分支店へと移る。この間主任、課長代理、課長と順調に昇格していった。
大分支店に赴任してから、Y君の胸に去来するものは、母親の事、弟の事、そして自分をはぐくんでくれたふるさと星野村のことであった。長男である自分は、いずれは星野村に帰って母親を見てゆかねばなるまい。ふるさとに帰ったら、星野村に貢献できる事は何か、を常に模索していた。大学卒業の時、健康を害した自分をあたたかく見守ってくれた国際証券に感動してこの会社に勤めたのではあるが、定年まで勤める気持は最初からなかった。
大分支店に赴任して間もなく目に付いたのが、大分県宇佐市に本社を持つ「株式会社土谷産業」であった。売上高が前年の二倍という、驚異的なこの土谷産業は、シイタケとマツタケを交配して、それぞれの特徴を併せ持った「シイマツタケ」(商品名は「ぶんご茸」)を開発し、これが軌道に乗ったばかりのベンチャー企業である。
Y君は幼いときに、父の椎茸栽培を手伝っていたので茸(キノコ)に関心があり、慶応大学時代のゼミでは「ベンチャー企業の成長要因」を研究していた関係から、この会社がY君の頭にピンときた。
「この会社は将来、日本を代表する企業に成長するだろう」しかも、社長は四十一歳の新進気鋭の若さである。
Y君の食指が、この土谷産業に向けられ始めた事は、至極当然な事であった。
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