星野村のもう一つの星 その1

 親が子を殺し、子が親を殺すという、けだものにも劣る悲惨な事件が渦巻く現代の世相に、つたないこの一文を呈示致します。

 八女高校を昭和五十七年に卒業した星野村のY君の家庭は、祖母と両親、弟の五人であった。Y君は小学校の三年の時、新聞配達によって、自分で働いてお金を得ることを体験する。わずか十五軒分とはいえ、毎朝六時に起きて配達して得た一か月分の報酬三千円は、小学生のY君にとっては、「有難く、尊い」ものであった。小学校六年まで新聞配達を続けて得たお金は、必要以外はすべて貯金し、親からお金をもらった記憶はない。
 中学生になってからは、新聞配達は弟にゆずり、自分の小遣い錢は、茶摘みや椎茸栽培の手伝いをして稼いだ。しかし、中学一年の冬、元気だった父が急死したために、一家は急速に窮乏していった。だからY君は、高校に入学後も、高校の授業料や学用品などを購入するための一切の費用を、自分で働いて稼がねばならなかった。茶摘み、椎茸栽培はもちろん、夏休みには土方までして日錢を稼いだ。さらに、日本育英資金や星野村奨学金などを活用して、高校在学中に入用なすべての経費は、一錢も親の援助を受けずに高校三年間をすごしたのである。
 Y君の父亡きあとの母親は、残された一反五畝の田畑と茶畑で生活を支え、現金収入のために農閑期には、近くの薄板工場で日雇いとなって働いていた。日暮れになって疲れて帰ってくる母親のため、Y君はたびたび夕食の準備をした。それでもY君は、級友たちと高校生活を楽しみ、母親が作ってくれる心尽くしのおいしい弁当をいただくたびに、
「母のためにも、将来立派な人間になろう」
 という思いが募った。
 しかし、アルバイトなどで十分な勉強時間がなかったY君は、高校卒業時に受験した大学は失敗し浪人となる。
 一浪時代は母親を助けて家業(米作り、茶業)を続けながら、自宅の中古ラジオで大学受験講座を聞き、勉学に励んだが、やはり家業などに時間をとられ受験に失敗した。
 母子家庭でもあるし、早く就職させてはどうかという村人のすすめに、母親もそれを望んでいたが、Y君は決然として、
「大学に行って見聞を広め、将来は広い視野に立って郷土のために尽くしたい」
 と母親を説得して二浪となる。さらに、母親と弟に、次のように「約束」し、「お願い」して、大阪に旅立って行った。
「今後、私が大学を卒業するまで、家からは一切の経済的援助を受けるつもりはないので、どうか私のわがままを許してほしい」
 大阪に出たY君は、浪速予備校への手続きを済ませると同時に、朝日新聞奨学生として販売店に住み込む。早朝四時からの新聞配達のノルマ二百七十軒分を完遂すれば、予備校の受講料は新聞社で負担してくれるし、その外に月給六万五千円が支給される。Y君はその中から朝昼夕の食事代・書籍・文具代、その他すべての雑費を差し引いた残金二万円を、将来にそなえて毎月貯金した。
 「もうあとがない」という背水の覚悟で、予備校では寸暇を惜しんで頑張ったお蔭で特待生となり、予備校の受講料の全額四十万円が免除されてY君の手元に返金された。もちろんこれも全額貯金した。
 努力の甲斐あって、二浪の後、大阪市立大学経済学部と、慶応大学商学部に合格した。
 Y君は、日本経済の中心地である東京に出て、自分を試してみようと決意し、慶応大学にすすむことに決める。