[目次]
        味噌汁(みそしる)

牛島頼三郎

 「あなたァ〜、けさのしんぶんよんだァ〜?」

 書斎で書き物をしていると台所の方からいつになく甲高い妻の声が聞こえてきた。もうそろそろ還暦だというのに、若々しいサザエさんのような弾んだ声である。でもこんな呼びかけをされる時は要警戒である。長年のつきあいで身体がそれを覚えている。うっかり調子を合せると痛い目にあう。だから今度もそれを予感して「きたな、はて今日は何だろう。最近は何も悪いことはしていないと思うが……」とめまぐるしく頭の中が回転する。一応心の準備ができたところで「まだ読んどらんよ」と少し調子をはずして答える。そして次の言葉を待つ。

「月足先生の書いとってん今日の紅皿たい……」

 これは実際読んでいないから答にうそはない。がこの段階ではまだ全く見当がつかない。増々慎重に身構えて、かあさんの次の言葉を待つ。

「月足先生の家では、朝早く起きられた方が、ミソ汁を作るようにしてあるげなよ……」

 と、ここにきてやっとその意図が見えてきた。「ハハァーおれにもミソ汁を作れと言いたいのだな?」でも、まだ私はだまって、次に何が出てくるか興味津々としてかあさんの言葉を待った。

「……うちもそげんしたらどげん?」

 ついに来た。私の予感は的中した。だがすぐに返答するわけにはいかない。問題は「早く起きた方が」ときたからだ。月足先生のお家庭はいざ知らず、我が家では朝早く起きるのは圧倒的に私の方が多く、ほぼ毎日と言っていい。そのことは十分知っていながら「早く起きた方が」というのだからあきれてしまう。ア然として、その見事さに感心するばかり。おかしくなってついに笑い出してしまった。

 結果はまたまた完敗。戦わずして破れてしまったわけである。日記をめくってみるとこの事件が起きたのは平成十一年十一月、早や三年になろうとしている。以後、ミソ汁作りは私の大切な日課になってしまった。

 我が家は妻との二人ぐらしである。これから老を迎えて二人して共に生きていかなければならない。そういう現実を前にして、料理・洗濯は女の仕事だ、男の仕事だといった論争は不毛である。外聞はどうあれ、現実に即して柔軟に対応していかなければならない。そう決めてしまうと、いつのまにかミソ汁作りにのめり込んでしまっていた。うまいミソ汁を作ろう、その秘訣はどんなところにあるのだろう、などと追求していくとミソ汁作りも結構おもしろいのである。

 ミソ汁は、味噌、ダシ、具から成り立つ。味噌はかあさん手作りの味噌である。うちでとれた米や大豆から味噌を作るわけだが、素人にしてはかなりの出来で、うまいのである。これぞ正に手前味噌である。ダシは普段はコンブ、シイタケだが、特別な時はカツオを加える。問題はダシ汁の作り方で、コンブやカツオ節からダシを取るときは、火かげんが大切である。具には旬のものを使う。里芋はミソ汁の味を引き立てるのにとてもよい食材である。また、シジミやアサリのミソ汁は格別で実にうまい。

 ミソ汁と言えば、池波正太郎さんの小説「剣客商売」に出てくるミソ汁が一番である。主人公秋山小兵衛の息子、大治郎の道場に雇われている百姓の女房の作る根深汁(ネギのミソ汁)はいかにもうまそうである。

『根深汁で飯を食い始めた大治郎の両眼は児童の如く無邪気なものであって、ふとやかな鼻は楽しげに汁のにおいを嗅ぎ……思わず舌つずみをうち「うまい」と声にのぼせたのはよほどうまかったに違いない』

というところなどは根深汁のうまさと共に、食物を摂る動物の幸福感がみなぎっている。この女房が作るミソ汁は、根深汁のほかにタニシ汁、シジミ汁など実に多彩である。またこの小説には、ミソ汁のほかにいろんな料理がたくさん出てきて、視点をかえて読めば料理の手本としても十分楽しめる。近々、「江戸浅草・深川料理百選」として編集しなおしてみたいと思っている。

 うちのかあさんからまかされたミソ汁作り、ただ諾々と作っていくのではなく、未来展望をもち“ミソ汁にロマンを”求めてみたいと思っている。さしあたり、ネギやタニシを育て、養って、根深汁、タニシ汁をぜひ作ってみたいと思う。ミソ汁は日本の大切な食文化だから。

(八女市大篭)