4月(卯月)の歳時記
天の災い(7)
郷 田 敏 男
八女市柳島
絵 梅 本 光 男 広川町長延
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大正十年の大洪水の惨害から、急に河川の大改修が叫ばれ出しました。ですが、戦後の乏しい町村や郡だけの工事では知れたもので細(こま)切れ工事では埒(らち)があきません。このことがあってか、翌十一年には主な河川や道路は県の直轄工事になりました。
自然の状態では、河川は必ず蛇行を繰り返すものです。流れが河岸に突き当たっては跳ね返り、跳ね返ってはまた反対側に突き当たり、蛇(へび)のうねりのような流れをします。奔流が突き当たる箇所が最も被害を受け、抉(えぐ)りとられて渕になります。反対に、対岸は流れが緩く、小石や砂が溜ります。当然、この攻撃斜面の護岸工事に主力が注がれるのです。玉石で高い石垣を築き、根元には蛇範や枠を埋め込み崩壊を防ぐのです。反対の滑走斜面に溜まった砂利を取り除きなるべく流れを直線に直します。昭和二十八年の記録的な大洪水まで、あれこれこうした三十数年の努力が続けられたのです。
「ソーナイ。前ン大水アガリニャ ソーニャ土方ン仕事(しごつ)ノ 弾ミョーッタナヤ」「ソーソー。百姓モヒマヒマ 土方ン仕事ノ ヒユトリ ヂョーッタタイ」「何年デンカカッテ 長ーンカ土居ノ アッチコッチ 出来ッタナヤ」「ソン時分ナ石垣築キドンガ ヒユ(日雇い)ノ一円二十銭グレデ トロッコバ押シタリ引イタリ スルモンナ 確カ 七十銭グレン ヒユギンジャッツロー。」
もう大丈夫、これでひと安堵と思われていた矢先、昭和二十八年六月末には予想もされない豪雨が見舞いました。平安の地、八女も目をそむけるばかりの惨状を呈し、久留米市も筑後川の堤防がこわれ街中水びたしになりました。 |