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 平成13年6
 
 

石灯ろうに刻まれた不思議な穴
…「盃状穴」の謎 …

坂 田 健 一

 平素よく見掛けているものでも、「その気」で見つめると意外な「発見」をする場合があります。神社の石灯ろうに不思議な穴があるのに気づいたことはありませんか。
 八女市土橋八幡宮や筑後市六所宮を訪ねますと、石灯ろうの基礎や基壇部分に盃状の穴がいくつも刻まれているのに気づかれるはずです。一体、だれが、何のために、いつ刻んだものか見当がつきません。穴の直径は大きいものでは十五センチ以上、深さは十センチほどもあります。石材が長野石(凝灰岩)ですので、彫刻はしやすいでしょうが、小刀で刻めるような穴ではありません。ノミかタガネを使い、長時間かけて抉ったものらしく、複数の人の作為が感じられます。
 実は、このような穴は郷土の神社や寺院の石造物に数多く見られます。三潴町本町の三島神社に古い江戸時代の手洗鉢がありますが、その周縁部には深い穴が幾つも刻まれています。石橋の欄干や石段にもみられます。久留米市国分町日吉神社の石橋や鳥居周辺の敷石にも点々と穴が彫られています。
 筑後地方だけではありません。熊本県一の宮町阿蘇神社や東京都墨田区富岡八幡宮の手洗鉢にも穴が刻まれていました。また、熊本県砥用町霊台橋の欄干や大分県杵築市内にある坂の石段にも同様の穴があったように記憶しています。ひょっとしたら、全国的に分布しているのかもしれません。
 手洗鉢や石灯ろうの場合は、まず四隅から彫り始めて、中ほどに移るようです。穴が重なって瓢箪形になっているものや、重なりあった穴や、彫りかけて途中でやめたものや実に様々です。単独の作業ではなく、多数の人が代々かけて刻んだ「作品」に違いありません。その目的は、油を注いで灯をともす「灯明皿」と推測できるのですが、中には穴の一角を壊していますので、油が流れ出してはその機能は果たせません。江戸時代のものだけでなく、明治年間のものにも見られますので、穴を刻んだ年代が近代以降に下る場合もあることになります。
 さらに不思議なのは、立体面にも盃状の穴があることです。瀬高町本吉清水山の衡門(鳥居に似た石門)や久留米市山本町永勝寺の幟礎(のぼりを立てる礎石)にも多数の穴が刻まれています。灯明皿でないことは歴然としています。
 さらに、さらに不思議なのは、竿石部分に、帯状の深い溝が刻まれている石灯ろうがあることです。筑後市下北島大神宮の石灯ろうには長さ四十センチ、深さ十センチのV字状の溝が数本刻まれています。子供のいたずらとも思えません。各地の神社に点在するということは、このような作為が、地元の人に半ば認められていたということでしょうか。
 考古学ではこのような穴を「盃状穴」といっています。同様の穴は、ユーラシア大陸全域に分布するドルメン(巨石墳墓)などによく彫られているそうで、韓国の黄龍渾教授の説では、「死者の蘇生を祈願する呪術的なもの」ということです。
 わが国では、昭和五十五年五月、山口市神田山古墳の箱式石棺の上蓋に刻まれた盃状穴が最初の発見といわれています。翌年八月には、太宰府市の民家の庭石にも同様の穴が認められ、新聞報道されたことがあります。
 筑後地区では、久留米市石櫃山古墳の家形石棺などに認められます。展示されたものは、広川町の古墳公園資料館にあります。
 しかし、ここでいう「盃状穴」は民俗学のテーマで、考古学の領域ではありません。このような盃状穴は、同六十年ごろ雑誌『えとのす』に広島県のものが紹介されて話題になりました。工作目的が「死者の復活」とは思えません。単なる灯明皿として彫られた穴もありましょうが、そればかりとは考えられません。個人や集団の願いごとなどの呪術的造型なのか、考古学上の盃状穴とどう関連するのか、今のところまったく不明です。
 子供のころに、彫られた穴でままごと遊びをしたという人はいましたが、穴を彫ったり、溝を刻んだりした張本人にはついに出会えませんでした。中にはセメントを流しこんで「補修」した穴も見受けられますが、単に子供のいたずらと思われてのことでしょうか。
 半世紀も前でしたら、工作者が名乗り出て、その目的を雄弁に伝えてくれたことと思いますが、今となっては探索のすべがありません。
 どうぞ、近くの神社の石造物にご注目ください。情報がありましたら、お願いします。御先祖様の日記の片隅に、ヒントになることが書きつけてあるかもしれません。
(筑後市常用東)


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